鬼子譚 - 物語文章
トップページ > 物語文章 > 鬼子譚 - 物語文章
第一部:
01 |
02 |
03 |
04 |
05 |
06 |
07 |
08 |
09 |
10
第二部:
01 |
02 |
03 |
04 |
05 |
06 |
07 |
08 |
09 |
10 |
11
【01_02】
気づいたら、わたしはいつの間にか公園のベンチに横たえられていた。
頭がずきずき痛い。倒れた際に打ったらしい。
それとは別に殴られた(らしい)箇所も表面が焼けるように痛い。手で触ると血が付いたから、どうも切れているようだ。
身を起こすと、隣のベンチに長い黒髪の女性が座っていた。彼女は読んでいた文庫本(ヨーロッパの古典小説じゃないかという勘が働いた)から目を上げた。
視線が合った。
眉の高さで一文字に切りそろえた前髪の下で、穏やかな一重まぶたの目が微笑んだ。
「お久しぶりですなかよしさん。私を覚えていますか?」
涼しげな声で彼女は口を開いた。
「お久しぶりですえりかさん。倒れてたせいで記憶を無くしてしまったようです、あなたのことを除いて。」
「あら… 記憶喪失?」
「記憶を取り戻すには愛する女性のキスが必要だと攻略本には書いてあります。」
「判りました。では」
と言ってえりかさんが腰を浮かしたので、わたしは慌てて別の話題を振った。
「えりかさんよくわたしだって判りましたね。七年前と今とじゃかなり見た目も違っているんじゃないかと思っていましたが。」
「背が、伸びましたよね。なかよしさんもともと大きかったけれどもっと背が高くなったんですね。でも、幼さが薄まっただけで、やっぱり見れば判ります。
なかよしさんこそ、私のことひと目で判ってくださいましたね。中学の頃とあんまり変わっていませんか?」
「いえ、もっとお綺麗になりましたよ。それにその、ずいぶんお育ちになったんですね。」
「背は、中学の頃からほとんど伸びてませんよ?」
「いやその、まあ…」
言葉を濁した。わたしはさっきから彼女の豊かなふくらみにちらちらと目を奪われてしまっていた。体にぴったりとしたセーターが彼女の均整の取れたボディラインと大きく孤を描く丸みとを露わにしていた。
えりかさんがくすくす笑う。
「そんなに気になりますか? もう。」
えりかさんは、七年前までの・わたしの知っている限りでは、公園の近所に住んでいた。
たまたまスーパーに買い物に行った帰り道に、公園に人が倒れているのを見付けたらしい。それが昔の知り合いだったので、付き添ってくれていたのだろう。
「なかよしさん、どうして倒れていたんですか?」
「ちょっとふるさとの大地に添い寝されてゆっくり眠りたい気分だったんですよ。」
「夢見心地はどうでした?」
「静かなボートに乗って広い川を渡っているかのように穏やかでした。」
「向こう岸はどんな景色でしたか?」
「そうですね。石油コンビナート?」
「顔から血が出ていましたけれど。」
「あなたと再会したので今度は鼻から血が出てしまいそうです。」
「出してもいいんですよ? 我慢しないで。」
「じゃあ、協力してください。」
「殴ったほうがいいですか? 脱いだほうがいいですか?」
「頭の出血の件ですが、殴られた際に切れたみたいですね。」
「骨はなんともありません?」
「なんともあるかもしれません。実はかなり痛んでいるようですね。この辺に医者はありましたっけ?」
「歯医者ならありますよ。」
「歯の健康は大切ですね。」
「なかよしさんもご存知なんじゃないかしら。ほら、佐々木歯科。」
「あああの、待合室に絵本がたくさん置いてあるところですね。」
「私今でも半年に一度は歯石を落としてもらいに行くんですよ。絵本も読んでます。」
「『風が吹くとき』は読みました? レイモンド・ブリックスの。」
「読みました。原爆のやつでしょう?」
「わたしはあの本に登場する、仲のいい夫婦が好きです。」
「で、歯医者じゃなくて外科的な医者はありますかね、えりかさん。」
「町に行かなくちゃありません。」
「今度行かなくちゃいけないだろうなあ。」
「それともいま救急車呼びます?」
「アンビューランス。」
「は?」
「いや、救急車呼ぶほどじゃないと思います。わたしが呼びたいと願って来たのはあなただけです。」
「私を、夜這いたかったと。」
「アンビューランスってのは英語で救急車のことなんですよえりかさん。」
「なかよしさん、こっちにいらっしゃってたんですね。」
「このたび、こっちの中学に教師として勤めることになりました。四月からです。」
「あ、じゃあこちらに寄ったということじゃなくて、本格的にお戻りになったんですね。」
「そうです。いまアパートを探している段階ですな。アパートに住んだことがないので探すところからすでに挫折しそうです。」
「あら、お住まいまだ見つかってないんですか?」
「ええ、アパートなんかその辺にごろごろしていると思い込んでいたのですが、ないところにはないんですね。」
「…あの、もしよかったら、私のうちに来ませんか?」
「え。」
「アパート見つかるまで宿泊させていただけると。」
「いえ、その。」
「もしか、えりかさんの家に住んでしまっていいということかな?」
「そういうことです。」
「いいんですか? まずくないですか。」
「私はいいですよ。部屋も余ってますし、通勤にもそんなに不便じゃないと思います。」
「ご家族の方に迷惑じゃ…?」
「母は、亡くなりましたから。」
「その… ひとつ屋根の下に若い男女と言うのは、えりかさん的には問題はないんでしょうか。」
「私的には構いません。なかよしさん的には、私なんかと同じ家に住むのはお嫌なんですか?」
えりかさんは悲しそうな目つきをして問いかけてきた、けれども、口元が微笑んでいる。
「わたし的にはうれしきこと限りなしと言ったところです。」
「ふふ。いきなり襲っちゃだめですよ?」
「え、じゃあいきなりでなければ構わないと。」
えりかさんはくすくす笑っていた。
ひとつ屋根の下に、えりかさんとふたりきりで生活できる。「生きていればきっといいことがある」という言い回しをする際の「いいこと」というのは、こういうことを言うんだろう。
それよりも、えりかさんが何の抵抗もなく数年ぶりに会ったわたしを受け入れてくれるのがとにかくうれしかった。うれしい反面、その躊躇のなさに、戸惑いを受けてしまうほどだった。
「いずれにせよわたしに断る理由はひとかけらもありません。お言葉に甘えさせていただこうかな。」
「そうしたら、今から案内しますね。と言っても、なかよしさんが引っ越す前から家は変わってませんけど。」
「えりかさんのお宅だったら、もちろん存じ上げてますよ。あの、いかつい門のある大きなお屋敷ですよね。」
「お屋敷…かどうかはあれですけれど多分それです。よくご存知でしたね。」
「思春期にはいつも遠くから眺めていましたから。」
「そんなことしていたんですか?」
「今日もそのつもりだったんですが。」
えりかさんは、この村でのわたしの記憶の中での、主要な構成要素なのだ。
「お荷物はそれだけ?」
「いや、町のビジネスホテルに多少預けてあります。これから取ってきますよ。引っ越すとなれば、親戚の家からもう少し荷物を取り寄せることになるでしょう。」
「なかよしさん、いらっしゃる前にどうして私に教えてくれなかったんです?」
えりかさんはわたしの目をまっすぐに見つめて言った。
「いやあ、わたしはものごとの『あらかじめ』ってのが苦手なんですよ。計画性が無くって。」
実際には、迷った挙句できなかったといったところだった。えりかさんにもわたしの知らない生活がずっと続いていたのだし、わたしを覚えてくれていないかもしれないとか、もう結婚でもしているかもしれないとか、そういうことを考えると連絡をする勇気がいつもくじけてしまう。
しばらく間があった。えりかさんは目を伏せ手元を見つめている。
聞きにくい話題を持ち出そうとしていたらしかった。
わたしにも、えりかさんに聞きたくて聞きにくい、ある話題があった。おそらくそれは、えりかさんが口にしようとしているものと同じものなのだろう。
「えりかさん。あのときの約束… のことは、覚えていますか?」
「あっ…」
顔を上げてわたしを見つめる。
「もちろん、覚えています。なかよしさんも忘れないでいてくださったんですね。」
「わたしが戻ってきた本当の理由は、あなたに再び会うためですからね。」
「じゃあ、ホテル戻ってチェックアウトしてきますよ。伺いますからご自宅で待っていてください。」
「ええ。お待ちしております。夕ご飯作っておきますので、向こうで食事済ませてこないでくださいね。」
「ありがとうございます。」
わたしはバスで一度町に戻ってホテルをチェックアウトし、荷物を括りつけた旅行用カートを引きながら再度えりかさんの家にやって来た。
いつも見つめているだけだった門をはじめてくぐった。
>>次へ
第一部:
01 |
02 |
03 |
04 |
05 |
06 |
07 |
08 |
09 |
10
第二部:
01 |
02 |
03 |
04 |
05 |
06 |
07 |
08 |
09 |
10 |
11
▲このページのトップへ
当サイトのコンテンツは自由に加工、使用してくださって結構です。